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2022年9月23日 (金)

古民家見納めの旅

 8月に母の親戚から手紙と2枚の古い写真が送られてきた。手紙には、近々母の生家が工業団地に取り込まれ、取り壊されることになるとあった。

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母の父と妹。私は初めて母方のおじいちゃんの顔を知った。

 

取り壊されるのが一般的なちょっと古い家だったら、私もそれほど興味は湧かないけど、この家は築100年超えで金釘も使われていなければ、大黒柱も梁も敷地から切り出された欅の丸太でできていて、農村地域のいわゆる豪農を象徴するようなつくりで、これがなくなってしまうとあれば見納めをしたいという気持ちになるもの。こういうのに端から興味のない妹は「は?それってわくわくドキドキすること?子供に見せたい?何を勝手に妄想膨らませてるの?」ってめっちゃせせら笑ってたけど、そこをなんとかお願いして、9/18に車を出してもらった。

 

当日は台風が列島を通過するとあって天気予報は終始雨。朝9時前にどんより空の下、茨城に出発。アクアライン、首都高を通って久々にアサヒビールの金のうんちを見て、常磐道、守谷のサービスエリアで一旦トイレ休憩、つくばジャンクションで圏央道に入り、坂東で高速を降りた。途中少し雨がポツポツきたけど、頭上は明るい。

 

11時過ぎ、目的地に着いた。何年ぶりだろう。東日本大震災のあとに1回(母はもう1回)は来ているけど、その時は敷地にぐるりとロープ張ってあって中には入れず仕舞いだった。今回は鍵を持っているのが母の叔母と知らされていたので、連絡して開けてもらえた。

 

子供のときにお盆で来ていたけど、憶えているのは、縁側に座って足をブラブラさせながら赤茶色の砂地にいくつもある蟻地獄を眺めていたことと、お供え物が並ぶ仏壇の脇でくるくる光って回る提灯くらい。茨城のキツい印象の訛りもか。

 

母の叔母も母もこの家で生まれ、この家で育った。叔母が15の時に生まれた母はよく泣くうるさい赤ん坊だったらしい。

 

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瓦屋根もガラスも崩れていない。


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この縁側に座ってたっけ。

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農作物を乾燥、貯蔵していた納戸

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トイレ。4つある

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泥棒が2階から紐を垂らして袋をおろしていたところ

家はひいおじいちゃんが93まで住んでいたけどその後は空き家になっている。約30年の間に中はすっかりゴミ屋敷と化していた。広い土間にはベッドらしきものが2台並んでいてちょっとホラー。腰くらいの高さがある上がり框の先には、目玉が書き入れられてないままの大きなだるまに金ピカ布袋様。

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4つ並ぶトイレのドア

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立派な梁

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大黒柱


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欄間

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電気がない時代に建てられた家は配線がむき出し

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基礎には柱が乗ってるだけ。
関東大震災も東日本大震災も生き延びた。

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井戸
庭はとにかく広く、母が半世紀以上前に父と植えた木は大きく育っている。

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竹林


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大工さんが住んでいた小屋。戦時中は疎開してきた親族が住んでいた。


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ひいおじいちゃんは1900年生まれ1999年没。
勲五等いただいて嬉しくて自分の名前彫っちゃった石碑。
取り壊しとともに消える運命。後の世に発掘されるのかも。

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大叔母は気遣いしてくれる人で冷えたペットボトルを用意していてくれたり、雨が降り出す中見送ってくれたりした。ひいおじいちゃんにまつわる話も、自転車乗ってって山で寝ては村人に起こされるとか、苔とってきて売ってたとか、庭の梅で梅干しつくったらかびちゃったとか、たくさん聞かせてくれた。


農村から人が消え、静かな静かな町にある古民家は誰の目に留まることもなく、100年の歴史に幕を閉じる。

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