言霊
おばあちゃん、86回目のお誕生日おめでとう。
お花屋さんにお花を持って来てもらったよ。
今日が済んだら安心して戻ってね。
今日が済んだら息子が戻ってこれるように。
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おばあちゃん、86回目のお誕生日おめでとう。
お花屋さんにお花を持って来てもらったよ。
今日が済んだら安心して戻ってね。
今日が済んだら息子が戻ってこれるように。
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札幌に行ったらおじさんにぜひとも聞いておきたいことがあった。ヨシダさんというひとに心当たりはありませんかと。
おばあちゃんが6月になってだいぶ言動に怪しさが増してきた頃、ふとこんなことを漏らした。
私が結婚したのはヨシダさんというひとだったのよ、と。
えええ、ここに来てまさかの「秘めた人」の存在が明るみに?ヨシダさんって誰、誰なんだと、それを聞いた私たちは一同びっくりした。
おばあちゃんに聞き返しても的を得た答えが出てこなくてますますヨシダさんのことが気になった。程なくしておばあちゃんはあっけなく他界。火葬場でお別れの言葉を掛けるときに「おじいちゃんのとこに行ってね。間違えないでね」とハハは言っていた。
札幌でお寿司をつまみながらずばり聞いてみた。すると。
何でそんな名前知ってるの?と驚きつつ、もしかしたらと教えてくれた。
それはおじいちゃんが札幌の学生であったとき、下宿先で隣家のお茶の先生のところに来るおばあちゃんに惚れたことに始まる。都会っ子なおばあちゃんのハートを射止めようと、田舎の農家から出てきた屯田兵の三代目は頑張った。毎日毎日手紙を寄越して、その日その日のできごとなんかをひたすら綴った。おばあちゃんは変な人と思い、後年そのことを聞くとつまんない手紙だったのよとにべもない感想しか持っていなかったけど、何にせよおじいちゃんは手紙を書き続けた。おばあちゃんの家族もこれはどうしたらよいものかと半ばあきれ、お見合い全盛期の時代に半ばこれに困惑し、おじいちゃんの熱烈アプローチに仕方なしに対処することにした。おじいちゃんが以前語ってたことは、戦争で男性自体が少なかったから女性がわんさか寄ってきたんだけど、おばあちゃんにしたんだよと余裕さを思わせるようなこと。おばあちゃん側の家族から感じた温度とはだいぶ違ってると今なら思う。
とにかく、アプローチに対処すべく、両方の人柄をある程度知っていた近所のヨシダさんというダリアの卸をやっているおじさんが呼ばれ、話し合いの席を設けた。おじいちゃんは悪い人ではない、大丈夫、ということで、おばあちゃんもそれならこの人にするかと心を決めヨシダさんを仲人にしてめでたく結婚と相成った。
なるほど、それでおばあちゃんのちょっと混乱した頭の中でヨシダさんという人が思い出されたわけだ。なるほど、おじいちゃんがダリアに詳しく、埼玉でもよく咲かせていたんだ。
さて、そんな話を聞いてから今度はおじいちゃんの出身地である北見に向かった。そしたら、ふとしたときにおじいちゃんの妹が突然「ヨシダさんのダリアがさ」と切り出した。
えええ、こちらから何も言ってないのに、これは何か読まれたか。
曰く、ヨシダさんからもらったダリアが庭で咲いている。毎年咲かせては冬が来て土が凍る前に掘り出して、球根が凍らないように温度管理してある倉庫において、また翌年庭に植えているんだ。以前はもっとたくさんあったけど、場所もないからだいぶ減らしてるんだ。
いったい何十年生きているのか、軽く5、60年は生きているダリア。北見で今年も綺麗な花を咲かせていた。
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6/27、月曜日、ほとんどご飯も食べられなくなっていて水分もとれなくなっていたおばあちゃんが、むくんだ足からどんどんお水が出ていってしまっていてだいぶつらそうなので、病院に連れていき、とここまでは週に1、2回繰り返していたことだけど、ここにきてついに入院させることにした。なんとか二階から自分の足で下りてくることはできて、車にも乗り込むことができたけど、限界だったはず。入院先で早速リンゲル点滴するも、何度も引っこ抜いて血まみれに・・・。結局なにもしないことにした。翌日ハハが病院に行くと、入院してるという自覚はちゃんとあってどこにいるかは一応分かっていた。
29日、医療的な処置もなく、徘徊しちゃったり、裸になっちゃったりするのもあって、病院側から退院を推められる。終末期のケアができるとこではないんだね。夕方5時過ぎにハハと病院に行くと、おばあちゃんはベッドで仰向けになって虚ろな表情で天井に顔を向けつつ、指はせわしなくパジャマの紐を外そうとしていた。これまでだったら、少なくとも顔を見せれば「あら!」っていう反応があったけど、初めて完全に無反応だった。声をかけても届いてないしどこを見てるかも分からない。内なる世界というかどこか遠い世界に行っているようだった。ハハが起こしてゼリーを食べるか聞くとかすかにうなずいた。2口食べてもういいと首をふるけど、もう1口いこうというと口を開けた。同じ目線にいても虚ろな表情のまま。その後トイレを促すけど何も出ず、ベッドに移すといきなりバタンと倒れこんでまたパジャマを脱ぐことに集中し始めた。ハハが顔を拭いたり入れ歯をとって口腔ケアをしたりして、時間がなくなったので「じゃあ、また来るね」と病室を後にした。その後入れ違いにばあちゃん息子が病室に行き夕飯を食べさせた。
そして夜8時半頃に病院から電話がきて、おばあちゃんがあっけなく生を閉じたことを知った。家族がいても寂しい寂しいが口癖で、どんなに話しても足りない足りないと言われてたのに、最期はひとりきりでふっと消えちゃった。いけちゃうもんなんだねえ。
よぼよぼの老人をその歩き真似までして笑って、車いすともなると哀れみの対象として見て、自分は違うのよ!って言ってただけあって、亡くなる前日まで自分の足で歩いてたのはある意味あっぱれだわ。
葬儀場で寝かされてる姿はこれまでの寝姿と全く変わらず、むっくりといつものように直角に起き上がりそうだった。
7/1、お葬式を済ませた。台湾から叔母夫婦も来た。叔母は、おばあちゃんがなくなる一週間前に島に来て日曜に台湾に帰ったばかりだったから大忙し。まあ、いかにもその時が近そうではあったから驚くことではないけど、叔母はそうでもなかったらしくびっくりしていた。そしていつも通りお酒をたっぷり飲んでいた。6月なんてそれこそ毎日毎日、今日はどうだ、誕生日には命日にしないでね、と私たちは言い続けてたんだけど。
海の見える場所でおばあちゃんは灰になり、自分の部屋でいましばらくお墓に入るのを待ってます。
生前、これまた口癖のように言っていた「おばあちゃんの持ってる宝石は孫三人で分けてね」という言葉。叔母が、祭壇設置後業者が帰ると、早速引き出しから出してきたので、後でエミコに「ついにその時がきたよ」っていうと、「あーあー、よく見せられてた。あれとあれと・・」とソラで言っていた。それくらいしょっちゅう見せられていたらしい。そもそもギラギラとつける人じゃなかったから、数なんて全然ないしね。ハハが30年以上前にプレゼントしたものもちゃんと残っていた。
49日に集まるときにでもエミコとイトコとで形見分けしてもらえれば、おばあちゃんの願いどおりだ。とりあえずほぼ全部叔母が持っていったので、あとは任せよう。
同居生活は1年と3ヶ月で終了です。代わりに死んで、みたいなことを言われたこともあったけど、そうはさせまいと私もがんばった。結局何もしたくないという言葉通りに、何を勧めても何もしなかったけど、去年まだ今思えばマシだった頃におばあちゃんが詠んだ短歌がこれ。全部でこれだけ。
ところでおばあちゃんが少し前に「私が結婚したのはヨシダさん」と言っていたけど、ヨシダさんって誰だー!ちょっと気になった。
ちゃんとおじいちゃんのとこに行ってね。
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おばあちゃんと同居するようになってちょうど一年が過ぎた。
もうすぐ死ぬからもうどうでもいいのよ、というのを聞き続けること一年。
私の摂取カロリーの倍はいってるんじゃないかと思うくらいよく食べること一年。
寂しいからおしゃべりしましょうと言われ、実際会って話してても、しばらく会ってないわねと書かれ言われること一年。
私がひとりでいるのを見つけるたびに、まあ!大変!寂しいでしょ、と言われること一年。
出来のよろしい親戚の子の自慢を聞くこと一年。
何か意味を見出そうとか、おばあちゃんにかけた時間返せと願うとか、そんなことしてもしょうがない。
一周年を記念しておばあちゃんの大好物である揚げ物メニューを供した。カキフライと豆乳カニクリームコロッケ。
一周年を記念して、この一年に撮った写真をA4にプリントアウトして渡した。
海に行ったよね。北海道から弟たちが来て竹富島に行ったんだよね。夏には一週間那覇に行って過ごしたよね。誕生日にはホテルでディナーしたよね。東京にも行ったよね。娘とは小浜島に行ってハイムルブシの広いオーシャンビューの部屋に連泊したよね。孫が来たときには竹富に泊まったんだよね、etc。
何かしたとか行ったとかにも意味を見出してもしょうがないんだけど、写真見ても何一つ覚えていなかった。ハイムルブシなんぞ、2週間くらいパンフレット持ち歩いてて「よかったわー。あなたも行くといいわ」と宣伝カーになってたのに、もう消えていた。宣伝カーとしての役割も終わってた。
試しに30年前の写真を入れておいたら、そこにだけクリーンヒットで反応あり。出てくるエピソードはお決まりの2点だけだったけど。
あとは自分が写っている写真だっていう認識も薄い感じだった。よって話も全く弾まず・・・。空っぽの抜け殻人間だわ・・・。体力だけ残っちゃってるんだねえ。
ふぅ、あばらがいたい。
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去年4月におばあちゃんがこちらで同居し始めた時から、文字を少しでも書いてるといいかもと思い、小さなノートをあげた。その日何も書くことなければ新聞記事でも写せばいいし、過去のこととかでもいいし、なんでもいいから書きなよーといって。本人も、字は書かないと忘れるからねというので、すんなり書くかと思いきや、これがえらいこっちゃだった。ってのは前にもブログに書いたんだけど。
その後。
数ヶ月粘ってちょっとずつ書いてもらってたんだけど、あまりにも「いやよー!だって字が下手でヘタで見せらせないもの。」と毎回それはそれは大騒ぎで、こっちもくたびれてやめた。そしたらしばらくして「これ書いてきたの。見て。交換日記ね。」と見せてくるようになった。週に一回とかそんなペースで。最初からおばあちゃんが文を書いては誰かしかがコメント入れてるので、寄せ書きスタイルになってるのだけど、それはやりたいらしい。
ということでようやく一冊目が終わり、二冊目に入り、時々持ってきては、毎回、ほんっとに毎回「字がヘタでヘタで(以下、謙遜ワード続く)」と言っては見せに来る。そして私がその場でなにか書いて返すと「まあ!あなたの字が見たい。あなたの字が一番好きよ。」と言い残していく。
うちのおばあちゃんって「内容」っていうのにとことん興味がない。「外見」あるのみ。
そんなおばあちゃんの書く日記をそっと公開。
これ出版しても、某詩集のような印税が入ることはないだろなーーー。
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生ごみの入った袋から救出された例のスパンコール。
これ、よく一個一個糸を切り外したもんだ。
とはいえ、カーディガンにもはさみで切られてできた穴がいくつかあったので、ハハは夜なべして穴を繕った。
だってそのカーディガン、おばあちゃんとしては「お外へ着ていくための」服に認定しちゃったからね。さすがに穴あきはマズいよね。
やーれやれ。
気温10℃前半の日々が続いていたけど、今日はいきなり夏日到来。23℃越えた。しっかり晴れた!!!丸一日晴れてたのって今年初かもな。
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なんだかずーっと雲が出っぱなしだった島にようやく高気圧が戻ってきた。
パーン!と爽快に晴れて8月がスタートした。
柴犬は相変わらずうちに居着いている。ウシオについて散歩に出てつかず離れず、そして一緒に帰ってくる。「おすわり」っていうと、おすわりする。懐っこいし、かなり賢い。早く自宅に帰っておくれー!
ばあちゃんとの同居も4ヶ月になろうとしている。記憶力ほぼゼロ(通院日とか大事なことは覚えてるっぽい)、常に北海道での少女時代に戻っている人と、毎日毎日付き合うのは相当なストレスになる。ハハは朝からぶち切れていることもしばしば。まあそれは、記憶力のない人に対してというよりは、そこから来るもろもろの始末を一切フォローできていない上に、とんちんかんなことを言うばあちゃん息子に対してでもあるけど。
介護保険制度が始まって10年だそうな。嫁が義父母の世話をして当然っていう時代はつい最近までだったのね。しかもその名残はまだ濃いし、家族が面倒を見るというベースは今以ていきている。こわいわあ。
実質もう手伝いができないばあちゃんは、自分ではできると思っているので、とかく手をだそうとする。せめて自分のことをやってからにすればいいのだけど、どちらかというとパフォーマンスで手を出す。ハハが台所に立つとすかさず「まあ大変ねえ。まあ!まあ!お手伝いさせて」。ハハは当初はやらせてみたけど、会話を理解する能力がだいぶ落ちているので、やっぱりできない、というのが続き、「座ってて」という。すると「申し訳ない、ごめんなさい」と謝り続けるばあちゃん。それを毎日やる。ハハ、くたびれる。
一緒に住んでみてよく分かったことだけど、うちのばあちゃん、自分のテリトリーを異常にきれいにしたがる。必要なもの以外一切置きたくないのだ。ゴミはもちろん、一時的に置かれる、たとえばなにかの箱とか未読の新聞とか。で、テリトリーをまっさらにするということはそこに置かないものはどこかに追いやられる。忘れられる。・・・探し物はなんですか♪、になる。私たち、くたびれる。
ばあちゃんの脳から、おじいちゃんのことはデリート済み。私はばあちゃんの日記で文通をしていることになっているので、そこはかとなく結婚生活について質問しているけど、完全無視。会話に自ら出したことが一度もない。タブーのテーマっぽい。お見合いではなかったのにね・・・。おじいちゃんが毎日書いて送ったというラブレターも存在すら忘れてる。(ちなみに日記はさんざん書くのを嫌がって毎回激しく拒否するから、もういいやと関わるのをやめたら、あるときから「書いたのよ。見て。でも字が下手で下手で。」と言って私に見せるようになった。挙句、これだけが楽しみです、って。そして毎回下手で下手で。ま!あなたのは上手ね、を繰り返している。)
日によって、孫は私とエミコだけになる。思い出させるとまだ何とか他も出てくる。名前は消えてることが多いが、存在自体は覚えている。そのうちみんな忘れるのかしらん。
とりあえず、怒涛の「繰り返し」を繰り返している日々です。このタイミングでこのセリフがというのも決まってます。ご飯が美味しい時は、「84歳がこんなに食べるなんておかしいわね。いくらでも食べられるわね。みきたんはいいわね、こんなおいしいごはんが毎日食べられて。うわっ、こんなに種類がある!(2種類あればいっぱいになります)」。辛い時や見慣れぬもののときは「みきたんはこういうの食べるの?」。
この「繰り返し」に付き合わないで済んでいる他の孫の立場がうらやましいわ。私、エネルギー吸い取られまくってます・・・。他の人達は一切電話すら寄越さない・・・・・・・・・。ついにエミコも話さないもんだから、「今年話してない」って言われている。(※GWに会ってるけどね。)
↑毎回のように持ってきて見せる写真の一部。
そんなばあちゃんに「みきたんはいつも元気でいいわね」と書かれてます。
女優ですから。
外に出たい。
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おばあちゃん、時に扱いに困ります。いじわるばーさんって感じになります。
毎日のように昼下がりや夕方に、「寂しい。することない」って言ってきては私のベッドでごろんと横になるもんだから、「塗り絵やろうよー」とamazonで大人の塗り絵を買ってプレゼントした。京都がテーマのにして、届いたのを見れば想像以上に写真がきれいで、それ見ながらアウトラインにしたのを塗れるやつで、終わればポストカードにもなる。そしたら「八坂神社懐かしいわねえ。何遍も京都行ったのよ。」といったので、お、これはいいぞと思いきや・・・「いやよ。こんなのやらないわよ」。「でも最近うちが椅子の生活だから、正座しなくなってむくんでしょうがないって言ってるでしょ。ローテーブルに向かって正座してこれやるといいよ」って言っても「指図されたくない。こんなことするために来たんじゃない」とおっしゃる。まあ・・・そりゃあ塗り絵しに引越してきたんじゃないけど、「じゃあ何しにきたの?」と聞くと「みんなとおしゃべりするためよ」。「毎日しゃべってるし、こうやって夜はご飯食べながらずーっとしゃべってるじゃない。昼はみんな忙しいよ」といえば、「困ったわねえ。それは大変だ」。あまりにも日中文字通りボーっとしてるもんだから、なにかと提案したりなんだりはしているんだけど、だめだこりゃ。せっかく自室として和室をあてがっていても、そこで正座しているのもいやなんだとか。
ホームに行ってくれー!(絶対ヤダと言っている)
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徒然なるままにこの数日の観察結果をつぶやいてみる。
2日より、祖母が10年近く続けていた一人暮らしを終わりにして、石垣に越してきて同居を開始した。去年あたりから、とみに物忘れが目立つようになり、聞いてると日々の生活もギリギリ営んでいるなという雰囲気だったので、どうしようかと散々悩んだ末に、北海道育ちには辛いかもとは思ったけど、南の島での同居を選んでもらった。
受け入れ体制、ハード面。
幸い、家のつくりは2世帯住宅といってもいいようなものにしてあるので、空間的に問題はない。完全バリアフリーなのは一階だけだけど、おばあちゃんは体力面ではまだ私なんかよりはるかに問題ないので、二階にいってもらっても大丈夫そう。階段の昇り降りもいい運動となるくらいだ。二階には台所もあるし、トイレ・シャワーも各部屋にある。浴槽はなかったけど、これは沖縄でよく売っている簡易バスを入れたので解決。
実際に来てからも、特に問題はないらしい。唯一心配していた簡易バスは風情ないけど、十分よー、と言っている。
受け入れ体制、ソフト面。
自分の身の回りのことは今のところ全部自分でやっているので、今のところは特にサポートはいらない。ただ、この先どうなるかで大変になってはくるんだろな。おばあちゃんは、やっぱり大正生まれの女だけあって、息子に面倒を見てもらうというよりは嫁であるハハにやってもらうという意識が垣間見える。過去のいろいろからしてもそうだったし。だけどね、うちには「さくらンボー」がのさばっていて、これがまあ飼育するのに素晴らしく手がかかる。ハハにこれ以上別のお世話係をさせるのは容量オーバーなのだけど、その辺、親戚がどこまで理解出来るのか、非常に怪しい。なんせ、この同居話が出た時点で、「丸投げ」でしたから・・・。
当のご本人は、これからはお客さんではいられないから手伝うわと言っていて、その意識は良いのだけど、電気のスイッチの場所教えてもものの見事に忘れてるし、数十年前の生活スタイルを変えずに生きてきた人だから、あらゆるものに驚いてばかりで先に進めない。料理もそんなに得意ではないだけに、ありとあらゆるものを作るハハと違って知識がなくて頼むに頼めない。焼くか茹でるかして、醤油を大量にかけて終わっちゃうんじゃあねえ。
ひとつ言えるのは、これだけ高齢者が溢れてて問題になっていても、おばあちゃんはそれを自分の問題として捉えたこともなく、あらら、どうしましょう、おろおろ、としてるだけで思考停止し、それでもこうやって老人ホームにまだ入らずにいられることを何の疑いも持たずに済んでいるんだから、なんてハッピーなんだろうということ。自らは介護の経験もなく、特別生活に困ったこともなくここまで来てるだけに、なんともまあ・・・と受け入れる側は思うのだ。
毎食おいしいおいしいともりもり食べているところを見ると、とりあえずハッピーそうです。
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